6月29日(火)
村上春樹の最新作、「スプートニクの恋人」を、小間切れに読むというかなりかわいそうな読み方で読破してしまった。
どこかに書いたような気もするが、私は処女作の頃から村上春樹が好きで、人の目にとまる作品はおそらく全部読んでいるのではないかと思う。もちろん小説だけでなく、「村上朝日堂の逆襲」のような軽いエッセイものも、映画評のようなものもすべて。
むしろそういうものの方が、何気ない形で正確に作者としての村上春樹が表現されているかも知れない。
初めて出会って?からもうかなりの年月が経ってしまったわけである。
同じころ、若かった、天才と言われたある作家も私は好んで読んだものだった。仮にS氏としておこう。S氏の書いたものからは、書かれた内容が非常に硬質のものであったにもかかわらず、若さと同時に強いもろさ(そんなのもあるんです)、はかなさが感じられ、私はそれも愛した。彼はどうなってしまうんだろうと、心配までしていた。
でも今、S氏の書く文章はしっかりオトナの文章になっている。それは当然のことだと思う。人間は変化、成長?して当たり前のものなのだ。芥川龍之介がもし長生きしたら、きっとオトナの作家になっていただろうと思う。
でも、村上春樹は、いまのところ全然変わっていない。文章は変化してきたし、魂がふるえるように「うまい」表現がこの最新作にはたくさんあるように感じる。しかし登場人物は相変わらず孤独で絶望的である。それが乾いた絶望であるところが私は好きなのだが、それは彼の描く人物があくまでも「静か」だからだろう。
こんなに孤独で絶望的な村上春樹の作品が、どうしていつもいつもベストセラーになるのか、私は不思議でしようがない。若い人があまり傾倒するのをオススメできる作家ではないような気すらする。
いろいろな読み方をする読者がいるのに違いないし、私は多くの村上春樹ファンから見ると、違った読み方をしているのかも知れない。
それならそれでいい。
「スプートニクの恋人」は彼の「小説」にしてはかなり筋書き的にもまとまっていたし、映画を見ているような視覚的な感動もあったし、病院の待ち時間に読んでいたにもかかわらず、言葉のもつ力に負けて泣けてしまった部分もある。
それでいて決して「癒し」にならないところが、私にとっての村上春樹なのだ。
この1冊の本のなか、私に慟哭に近い、感情をもたらしたのは、257ページである。
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