4月17日(土) ご無沙汰の怠慢ですみませーん!
……仕事仕事仕事……。
ありがたいことだが、ほとんど休みが取れない日が続くと心身共に疲れてくる。が……。
私の仕事は主婦や母や、学校の役員などもあるが、まあ大体の所はDTPオペレーターとしてお客様の希望通りに印刷物を作ったりホームページを作ったりしている。
納得できるまで納期とにらめっこしながら作品(?)を作るのは楽しい。ある意味でこれは自己実現でありクリエイトなのだ。
本当のクリエイティブな、芸術的な、才能がない私のような人間は、お客様の意思を尊重し表現するこのあたりを限界として良しとしなければならない。
それでもお客様に喜んでもらえるものができたときにはそれなりに嬉しいものだ。
また、時には英語や日本語の文字打ちが必要なこともある。これもまた何故か、私の快感を呼び起こす。
結果的に肩は凝るし目は疲れるし、私は肉体疲労という題のついた銅像のようになってしまうのだが、お気に入りのキーボードで意味を理解するよりもっとスピーディーに「文字」を入力するというのは絶叫マシンの次くらいにスカッとする。
(英語の文章を入力するときには、意味やスペルを考えちゃいけないんですよ。とにかく文字、文字を見るんです。次に何のアルファベットが来るか、それだけ見て機械的に手を動かすと気持ちいいんです。あとでスペルチェックはパソコンがしてくれるし、なんてったって、知らない単語がありすぎて、どうせ意味なんか追うのは不可能なんですから……しくしく)
まあどちらにしても、私はパソコンが好きなのだ。
でもたまに、「これはちょっとちがう!」と感じるものを作らなくてはならないこともある。ほら、女優(表現者)が、監督の表現したいところと合わなくて降板することってあるでしょう、あんな感じかも知れない。
でも私は女優ではなくオペレーターだし、第一人の感覚は人それぞれだから、私が違和感を感じても、世の常識ではそれが当たり前なんてこと、沢山あるんです。
(むしろ私の方が変なのかも知れない、経験的にそう思うよ。うん、世の中を弁護させてもらえれば、私はかなりズレていると思う……。これの解決方法はね、自分を確立するしかないんですよね)
私の仕事の中で、視覚に訴える部分は割とフレキシブルな対応ができる分野である。美醜の感覚はそんなにずれるものではないし、私の仕事ではシュールやヘタウマやユーモアは需要がない。
だから、どうしてもストレスがたまるのは、他人の書いた『文章』なのだ。
うわあーーーーーーーーーーーーーーっ! と大声で叫びたくなるような文章に遭遇した時、本当に叫ぶとまわりが心配するし第一ノドを痛める恐れがあるので、突然ですがこれからはここに書くことに決いめたっと!
………… うわあーーーーーーーーーーーーーーっ!
そうそう、こんな事もありましたね。
外で飲むのが好きでカラオケ好きな夫が、先週、家族で外食後、カラオケに連れていってくれるという。久しぶりなので、レパートリーを増やそうと思った私、「この歌、歌いたい!」と思ったのは宇多田ヒカルの「Automatic」。夜までに練習しなくっちゃ。
車に乗るといつもアルバムを聴いていたので、すぐに歌えると思ったが、難関が……。
歌詞が小さすぎて(仕事で酷使したためということにしておこう)、裸眼では読めないのである。仕方がないので仕事用の眼鏡(よく言えば遠視用、チョーモロ悪く言えば老眼鏡である)をかけた。2回ほど練習すれば本番ダイジョウブだろう、とたかをくくってCDをかける。
……む、むずかしい……「な……、な回目のべ、……ルで受話器いをとおったキミいぃ……」この辺はまあいいよね、日本語と音楽のリズムがアンバランスな面白さを出しているわけです。
ところが「でも言葉を失ったしゅんか……、んーがー……一番幸せ」とくるんです。「なんだこれは!! ちょーむずかしいではないか!」
メガネなんかかけて歌っている場合ではない。歌詞の拡大コピーである。
このパターンに慣れてしまえば大体歌えるのだが、それは突然やってくるので、完全に「うた」を覚えないと、とっさにその異次元のような歌い方はできるものではない。
終わりに近い方の、黒人歌手でなければ歌えないようなアドリブはもうあきらめたが、それにしても10回以上練習してしまった。一応仕事ノルマ時間内なので、ちょっとマズイ。が、夜までになんとか歌えるようになろうと、結構必死であった。
そこへアツシがやってくる。歌詞カードをみながら練習する母を見て不思議に思うところが私の息子である。(私はふつうの歌なら、メロディーさえ知っていればカラオケでだいたいは歌えるのです……?)
その息子も一心不乱な母の姿にあきれてか、外に遊びに行ってしまったので、もう一度復習をして仕事に戻る。
こんなに真剣に歌なんぞ歌ったのは大学の混声合唱団以来であった。
本番はDon’t Wanna Cry(あむろ) と DEPARTURES(globe)と、このAutomaticを歌い、お世辞だと思うが夫から「うまいっ」と言われたわたしでした。
でも客観的に見ると、そんなわたしってとっても変なやつだとおもう。
そして長男Guppyの友人の妹が、やはりカラオケで宇多田ヒカルのMovin' on without youを歌ったという彼のページのフリートークを読んで、
『ああ、ドラクエで子供時代を過ごした人間の恐るべき音感の時代がやってきている!』と実感したのでした。オワリ。
2月22日(月)
13日の土曜日、パソコンに向かって緻密な印刷物のデータを作っていた隣の部屋で、半ドンの子供たちがゲームをしていた。これだけならいつもの週末のことなのだが、その日は仕事がたまっていたのと、試験前で部活がないトオルが、試験前なのにゲームに興じている姿に苛立ち、もう神経はMacだのDTPだのという次元を超越してしまった。
勉強を促しても聞く様子はもちろんないし、ガミガミいうのもばからしいので、
「よーし、不良の母になってやる」
と決意した。
「出かけてくるから、もし遅くなっても帰ってこなかったらご飯を炊いて、トオルはアツの面倒をみるのよ」
「どこいくの」
「まだ決まってない」
子供達は一瞬不安げであったが、出かける間際もゲームに夢中だったから、
「わたしの居場所はないのね……」 と大げさなおセンチ気分で車に乗り込んだ。
不本意ながら仕事を放棄せざるを得ないということに無性に腹が立ち、涙まででてくる。
でもどこへ行こう……。お金はないし、人と話をする気分にはなれない。
その時、数日前に久しぶりに電話をした、高校生の時の友達との会話を思い出した。彼女はわたしに輪をかけた本好きで、今も文筆関連の仕事をしている。(もっともわたしは、最近文学を殆ど読まなくなったが) 彼女いわく
「最近、本がおもしろくないと思っていたけど、『傷』という小説はなかなかおもしろかった。大体、今時の本より太宰治の方がよほどおもしろい」
さて、わたしも本は人より読んだ青春時代を送ったが、何故か日本の小説はあまり読まずにきてしまったのだ。彼女が夢中になっていた谷崎潤一郎や中村真一郎を、興味深く感じたことはなかった。むしろ実存主義小説と言われるものだとか、安部公房、また西欧文化を理解する上で必要と思われたキリスト教関係の本を読んでのめり込んだこともあった。
ドストエフスキーや小林秀雄、桑原武夫(この辺は文学ではないですね)に夢中になったこともある。だから恥ずかしいことだが、太宰治と言われても、暗い私小説を書いて自殺した典型的な日本文学者だろうくらいの認識しかなかったのである。
でも他でもない、(高校時代浮いてる二人のうちの片割れだった)彼女が今、おもしろいというのである。じゃあ「傷」と「太宰」でも読んでみるか……と、さしあたっての目標を得たわたしは涙も乾き(単純である)、四街道市立図書館へ。涙目がばれるような知人に会わなければいいな……と思いながら。
「傷」。神経症的な題だな、題的には好みじゃないな……などと思いながら検索すると、図書館には3種類の、作者の違う「傷」があった。たぶんこれだろうとあたりを付けたのが 森 瑤子 の「傷」。(今も絶対当たりだと確信している。こういうのは即座に聞いて確かめたりしないのがいいのだ)
太宰治は沢山あったが、家にも全集があるので、寝転がっても読めそうな文庫の「斜陽」を借りてきた。
他にも軽い村上春樹と、林真理子も2冊借りた。
すぐに帰るのもしゃくなので、どこか読める場所を探した。図書館だと知り合いに会いそうだったのですぐに出て、車に乗り込んだものの、喫茶店も落ち着かないし、どうしよう……静かで孤独になれる場所はないものか……車を走らせるうちに、佐倉市の歴史民俗博物館の前を通りかかった。そうだ、ここの駐車場ならうるさくないし、絶好の場所だ! ということで、温かい陽射しに包まれた車中で2時間ほど本を読んで過ごした。
……帰宅したらご飯が炊いてあったので嬉しかった。子供達はそれなりに反省したのだろう。わたしもリフレッシュして元気になった。(ミッキー模様の「読書用クッション」を買ってきたせいもある……)
「傷」は確かに一気に読んでしまったが、題名の通りかなり神経症的な小説であった。友人がおもしろく感じたのは、多分自分にも覚えるある内容がちりばめられていたからだろう……。久しぶりに文学に触れると、最近読んでおもしろくもこわくもなかった「リング」などにはない鋭い人間洞察や心理的描写が新鮮である。
「斜陽」は、没落していく中産階級の話だが、「そうか、昔は働かなくても、編み物したりサロンでお話したりして1日をすごす女性の「階級」というものがあったんだな〜」と読み始め、結構こちらもおもしろかった。内容的には、主人公の行動や心理に理解できない部分が多く、「ちょっとお、それ、違うんじゃない!?」とさえ感じたが、まあまあな時間を過ごせたと思う。
村上春樹のごく軽い読み物は、彼の本を読んでいるといつもそうなのだが、村上春樹がすぐそこのソファになんとなくすわってなんとなく雑誌をぱらぱらとめくっているような雰囲気をかもし出してくれる。(それはわたしにとっては幸福なのだ)
本はいいですね。
と言いながら、続けて小説を読んでいたら焦りの気持ちが高じてきて、「あなたのデータココが見られている! レイアウトデータ 添削のポイント」などという雑誌の付録を思わず手に取ってしまうわたしであった。
仕事関係のソフトのマニュアルや雑誌の記事などは、「昨日と違う自分」に必ずなれる(何と言っても求道者もはしりの分際ですから……)というのが、文学と共に過ごすのとはまったく違う。
でも、久しぶりに文学の楽しさを思い出せたので、テスト前の週末に子供がゲーム三昧するのもわたしにとっては有意義だったのだ。ふむ。