中世の四街道その1 村を守る地侍の城

中世の城は江戸時代の城のような石垣や天守閣はなく、土塁(土手)や空堀や山の斜面を一部平らにした平場(曲輪)などからなり、建物は掘立小屋が並ぶ程度のものです。

四街道市内の中世の城跡は、消滅してしまったものも含めて18ヶ所も確認されています。特に、市の西側を流れる鹿島川沿岸やそれに流れ込む小さな川がつくった入り組んだ谷を望む台地上に集中しています。

中世前期の四街道地域には、千葉氏の一族であった臼井氏一族の山無(山梨)・鹿渡・小名(小名木)など、現在も残る地名を名字とした地侍がいて、臼井荘と呼ばれる荘園に含まれていたようです。

その後、戦国時代には、臼井氏一族が本佐倉城(酒々井町)を本拠とする千葉氏本家と争っていますが、鹿島川沿岸に多くの城跡が見られるのはこのためかもしれません。

当時の千葉氏本家の妙見宮の儀式の際には、臼井の一門の他、吉岡・栗山・中台・山梨・蕨(和良比)氏が参加しており、市域は千葉氏本家の領域に入ったようです。

千葉氏はこの頃、関東一円に勢力を伸ばした小田原の北条氏の家臣となっています。そして、北条氏と敵対する安房の里見氏が印旛地域に攻め込んだ時に、中継基地として蕨(和良比)城が使われています。

このように、中世の城は状況によって新たに築城されたり改造されたりしているので、数多く残っているのです。  

(井上哲朗)

中世の城跡地図はこちら

中世の四街道その2 発掘された戦国の城

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和良比堀込城跡(わらびほりごめじょうあと)は四街道駅のすぐ南側の台地にありましたが、土地区画整理に先だって、昭和60・61年に発掘調査が行われました。その一部は現状で残され、公園となっていますので、往事の姿をしのぶこともできます。

城の大きさは、東西110m・南北130mで七つの平場(曲輪 くるわ)から成り、周囲を土塁(どるい)や空堀(からぼり)が巡っていました。江戸時代の本丸に当たる部分は台地先端の東西30m・南北50mの台形の曲輪(T郭)で、西隣に土塁と空堀を挟んで東西30m〜40m・南北50mの曲輪(U郭)がありました。

T郭とU郭の内部には、数多くの穴が見つかりました。堀立柱の建物跡や墓穴の跡です。U郭の南側には20m四方の小さな郭(X郭)がありました。

このU郭とX郭の間は土塁が切れていて、出入口の施設(虎口 こぐち)があったと思われます。虎口のあたりの空堀は直角に折れ曲がっていました。土塁や空堀の折り曲げは、敵に横から矢を射るのに適した構造です。

出土品には、中国産の青磁・白磁・染付の皿、瀬戸焼きの皿・碗・擂鉢(すりばち)・壺、常滑(とこなめ)焼きの鉢・甕(かめ)・素焼きの擂鉢・鍋・皿など、15世紀中頃から16世紀中頃(戦国時代中頃)の陶磁器があります。

五輪塔(ごりんとう)や板碑(いたび)などの墓石も空堀の埋め土の中から数多く出土しました。墓石の年代は、城が使われていた時期よりも古い14世紀代(南北朝時代)なので、城の中に城主の祖先の墓があった可能性があります。空堀の埋め立ては、落城後、城を再び使えなくするためにしたもので、墓石を捨てたのは、祖先の霊を閉じこめる儀式だったのかも知れません。

16世紀前半に安房の里見氏が印旛地方を攻撃した際に「蕨(わらび)」城を基地としていることが古文書に載っていますが、城主については、詳しくはわかりません。地元からのし上がった地侍であったかも知れません。

(井上哲朗)

近世の四街道 江戸時代の村

天正18(1580)年、豊臣秀吉は天下統一をかけて、関東最大勢力をほこる北条氏を攻撃します。世にいう「小田原攻め」です。このとき、北総を支配していた千葉一族は北条氏に味方して、小田原城に籠城しています。

この年の5月、留守をねらうかのように北総一帯に豊臣方の武将が侵入し、千葉一族の諸域は次々に陥落していきます。孤立化した小田原城も、ついに7月には落城し、千葉氏も北条氏と運命を共にして、滅亡の憂き目に遭うこととなります。

まもなくして、関東一円は徳川家康の支配下に入ることとなります。千葉氏の本城であった本佐倉城には徳川一族の松平氏が入城し、慶長15(1610)年には、土井利勝が佐倉城を築き始めます。

四街道の村々は、この佐倉藩に組み込まれ、江戸時代を通じて、のどかな農村風景が続きます。年貢米は、佐倉藩に納めたほか、千葉港から江戸にも運ばれていたようです。花のお江戸で、「物井米」や「栗山米」が話題となっていたかもしれません。

図は、明治時代初期に陸軍が作成した地図を基にして、幕末の四街道地域の主な村や道と地形を描いたものです。当時の村の名前が、現在の大字に受け継がれていることがわかります。

(井上哲朗)

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遺跡から学ぶ

縄文時代(約五千年前)の大きなムラの跡である山内丸山遺跡(青森県)が全国的な話題となったのは、つい最近のことです。クリなどの食用植物の栽培も行われていたようで、「縄文人のくらしは狩猟採集」といった、いままでのイメージを大きく変えたといわれています。

こうした遺跡の発掘調査は、毎日のように新聞紙上をにぎわしていることからもわかるように、青森県だけではなく全国各地で行われています。もちろん、私たちの千葉県も例外ではなく、なんと毎年500件もの発掘調査が行われているのです。

皆さんの家の近くでも、発掘調査が行われているかもしれません。青いビニールシートが目立つところは要注意です。

千葉県は三方を海に囲まれていることから、絶好な自然環境に恵まれ、全国で最も多い二万三千か所もの遺跡が知られています。県内の台地上は、いたるところが遺跡といってもいいでしょう。

その一方では、首都圏に位置している関係から、土地開発事業も数多く行われています。事業予定地内にある遺跡が現状のまま残せない場合には、工事前に発掘調査が必要となりますので、調査件数が多くなるのも当然といえるでしょう。

私の仕事が文化財に関係しているからか、県民の方々から、「どうして発掘調査が必要なのですか」という質問をよく受けます。そのようなときには、ついつい「文化財は国民の共有の財産だからです」と、かたくるしく答えてしまいます。

しかし、改めて考えてみますと、遺跡は私たち現代人にさまざまなことを語りかけています。そこで、佐倉市にある国立歴史民俗博物館館長の佐原眞さんが書かれていることを参考にして、いくつかの事例を紹介してみることにしましょう。

大昔の人々は現代人に比べて、非常に健康な歯をもっていました。

約一万年前の土器の出現によって、ヒトは煮炊きを覚えました。食べ物が殺菌されることによって寿命はのびましたが、やわらかくなり、歯で噛む回数が減りました。使わない器官は衰えていきます。

遺跡から発見されるヒトの骨をみると、時代が新しくなるに従って下顎が細くなっています。そのために、歯が生える場所も狭くなり、現代人の歯の本数は、本来の32本から28本に減ってしまいました。虫歯も比較にならないほど多くなっています。

長い間、ヒトと暮らしをともにしてきた犬も、同じような傾向を示しているといわれています。

このことは、幼児のころから、堅いものを食べ、よく噛む習慣が、歯を丈夫にする早道であることを、私たちに教えているのではないでしょうか。

ヒトは文明の発達により自然をこわすほど、花を愛するようになりました。

大昔の人々は、草や木を、薬や食料として、さらには季節の目安として、自然のままに利用してきました。しかし、身のまわりに、植木鉢・盆栽・活花など人工の花は置きませんでした。花は、ごく身近な自然のなかに咲いており、その必要はとくになかったのです。

花はすぐに朽ちてしまいますが、花粉はそのままの形で末永く残ることができます。地中に長く眠っていた花粉は、私たちに警告しています。色鮮やかに品種改良された現代の花は、自然破壊の裏返しではないかと。

きれいな花を見て、けっして手放しではよろこべません。

その他にも、直下型地震の原因となる活断層の発見など、遺跡は、私たちの生活に役立つ多くのヒントを与えています。

皆さんも、発掘調査現場に行ってみてはいかがでしょうか。必ず、なにか新しい発見があるに違いありません。 

(佐久間豊)

 

 

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