四街道市は現在の広域行政区分では、印旛郡内に含まれていますが、平安時代の937年に編纂された『和名類聚抄(わみょうるいじゅうしょう)』という書物(わが国の百科事典)によると、当時の千葉県は安房(あわ)国・上総(かずさ)国・下総(しもうさ)国の3国に、下総国はさらに11の郡に分かれており、四街道市は下総国千葉郡に含まれていたことがわかります。
千葉郡のなかはさらに七つの郷に分けられ、このうちの「山梨」郷・「物部」郷がほぼ現在の四街道市にあたるものと考えられています。
「山梨」については現在でも「古村」と呼ばれる山梨周辺、「物部」は現在の物井地区周辺と考えられ、これらの地域では千年以上も昔の地名が残されていることになります。
今回は、奈良時代(8世紀)の四街道のムラについてみていきましょう。
御成台団地の造成前に調査された木戸先(きどさき)遺跡、和良比団地の和良比遺跡、総合公園のなかの出口遺跡など、市内南半の地域では、点々と奈良時代のムラの跡が発掘調査されています。
ほとんどが8世紀後半(今からおよそ1250年前)に営まれたムラで、広大な面積を発掘したにもかかわらず、発見された竪穴住居跡(当時の家の跡)はひとつの遺跡でせいぜい数軒から十軒程度のごく小さな規模のムラだったことがわかりました。
また、ムラの営まれた期間も短く、突如として現れ、そして消えてゆくというムラがほとんどです。
当時の中央政府による政策のひとつに、律令と呼ばれる法律にもとづき全国の土地と人民を支配するという大原則がありました。そのために戸籍をつくり、「口分田」と呼ばれる農地を与え、祖・調・庸などのさまざまな税を納めされていたのです。
ところが、こうした政策が成立してすぐに、数々の開発奨励策が出されたことや、都の上級貴族などの権力者の荘園(私有地)の開発が相次いだことなどから破綻してゆきます。
ここ房総の地も例外ではなく、先にみた市内南半の各遺跡にみられる比較的短命なムラの跡も、こうした開拓集団の残したムラだったのではないかと考えられています。
木戸先遺跡では、土師器(はじき)と呼ばれる赤焼けの素焼きのやきものの一種、甕(かめ)(煮炊きにつかう鍋)が出土しました。これは武蔵国(現在の東京・埼玉)でつくられたものです。
昔からかまどには神様が宿っていると考えられており、そのかまどにかける甕も、ほかの道具と異なり、神聖視されていたことは十分考えられます。想像をたくましくすれば、武蔵国に住んでいた人々が新たな耕地の開墾のために集められ、はるばる四街道の地まで大事な甕を抱えて移住してきたものと考えることもできるかもしれません。
(阿部寿彦) |