四街道の古墳  ガラス玉の鋳型と大刀

四街道市では3〜4世紀の古墳はまだ発見されていませんが、今後見つかると思わせる資料がここに紹介する市内山梨の川戸下遺跡から出土したガラス玉鋳型の破片です。

この遺跡の調査では4世紀の竪穴住居が3棟発見され、鋳型は2号住居から出土しました。ガラス玉は主に古墳に埋葬されていましたので、川戸下遺跡の周囲に4世紀頃の古墳があることと考えられます。

ところで、鋳型は粘土の板であって、たくさんの小さな窪みがあり、その一つ一つの中央には針で突き刺したような穴があいています。この穴に細い芯棒を立てて、まわりにガラスの粉を詰めて加熱し、溶かします。

ガラス玉は冷えると簡単に鋳型からはずれ、円筒形になります。これを再加熱して角を丸くすればできあがりです。このようなガラス玉作りの技術はヤマト政権や東海地方の勢力と関係があったと考えられますので、川戸下遺跡の鋳型はガラス玉製作技術が知れるばかりでなく、当時の社会状況を知るうえでも貴重です。

次に、6〜7世紀の古墳についてみてみましょう。

物井地区を中心として千代田から内黒田地区にもまたがる地域には、他に比べて必ずしも大形とはいえませんが、たくさんの古墳があり、物井古墳群と呼ばれています。

このうち、千葉県文化財センターが調査した御山15号墳と呼ばれる直径20数メートルの円墳から注目される遺物が出土しました。

これは金銅装の大刀といわれるもので、さやもつかも金銅板でおおわれ、唐草文や円形の文様で装飾されています。この大刀は修復され、当時をほうふつさせる金銅色の輝きを放っています。これは長さ約2.15メートル、幅約85センチの石棺が発見されたもので、中から人骨と多種多数の玉や刀、鉄のやじりなどが出土しました。


SX-015 出土金銅装頭椎大刀

人骨は成人男性1体、成人女性3体、小児2体で、最初と最後に埋葬されたのは女性のようです。玉類が多いのは女性が多いためでしょうか。物井古墳群に大形の古墳は発見されていませんが、飾り大刀のような優れた文物をもっていたことから、大形古墳を造った他地域の集団との地位関係や果たした役割もそれほど小さくはなかったと思われます。

(糸川道行)

 

wpe51.jpg (13291 バイト)

 

 古代の四街道 開拓者のムラ

wpe66.jpg (6103 バイト)

『四街道市木戸先遺跡』
(財)印旛郡市文化財センター
発掘調査報告書第79集

四街道市は現在の広域行政区分では、印旛郡内に含まれていますが、平安時代の937年に編纂された『和名類聚抄(わみょうるいじゅうしょう)』という書物(わが国の百科事典)によると、当時の千葉県は安房(あわ)国・上総(かずさ)国・下総(しもうさ)国の3国に、下総国はさらに11の郡に分かれており、四街道市は下総国千葉郡に含まれていたことがわかります。

千葉郡のなかはさらに七つの郷に分けられ、このうちの「山梨」郷・「物部」郷がほぼ現在の四街道市にあたるものと考えられています。

「山梨」については現在でも「古村」と呼ばれる山梨周辺、「物部」は現在の物井地区周辺と考えられ、これらの地域では千年以上も昔の地名が残されていることになります。

今回は、奈良時代(8世紀)の四街道のムラについてみていきましょう。

御成台団地の造成前に調査された木戸先(きどさき)遺跡、和良比団地の和良比遺跡、総合公園のなかの出口遺跡など、市内南半の地域では、点々と奈良時代のムラの跡が発掘調査されています。

ほとんどが8世紀後半(今からおよそ1250年前)に営まれたムラで、広大な面積を発掘したにもかかわらず、発見された竪穴住居跡(当時の家の跡)はひとつの遺跡でせいぜい数軒から十軒程度のごく小さな規模のムラだったことがわかりました。

また、ムラの営まれた期間も短く、突如として現れ、そして消えてゆくというムラがほとんどです。

当時の中央政府による政策のひとつに、律令と呼ばれる法律にもとづき全国の土地と人民を支配するという大原則がありました。そのために戸籍をつくり、「口分田」と呼ばれる農地を与え、祖・調・庸などのさまざまな税を納めされていたのです。

ところが、こうした政策が成立してすぐに、数々の開発奨励策が出されたことや、都の上級貴族などの権力者の荘園(私有地)の開発が相次いだことなどから破綻してゆきます。

ここ房総の地も例外ではなく、先にみた市内南半の各遺跡にみられる比較的短命なムラの跡も、こうした開拓集団の残したムラだったのではないかと考えられています。

木戸先遺跡では、土師器(はじき)と呼ばれる赤焼けの素焼きのやきものの一種、甕(かめ)(煮炊きにつかう鍋)が出土しました。これは武蔵国(現在の東京・埼玉)でつくられたものです。

昔からかまどには神様が宿っていると考えられており、そのかまどにかける甕も、ほかの道具と異なり、神聖視されていたことは十分考えられます。想像をたくましくすれば、武蔵国に住んでいた人々が新たな耕地の開墾のために集められ、はるばる四街道の地まで大事な甕を抱えて移住してきたものと考えることもできるかもしれません。

(阿部寿彦)

古代の四街道 その二 お堂のある風景

6世紀中頃に百済から日本に伝わった仏教は、聖武天皇が天平13年(奈良時代)発した「国分寺建立の詔」を一つの契機として、全国的にも大きな広がりを見せます。これと前後するかように、豪族や有力者たちも競って、当時ではめずらしい「屋根を瓦で葺いた建物」である寺院を建てていきます。

一方では、村人たちにとって「最も身近な仏教」ともいえる茅葺きや板葺きの小規模な建物の寺も、私度僧(民間僧侶)や村人自らの手によって各地の村落で造られ始めます。

このような寺の跡からよく発見されるものに「瓦塔」があります。須恵器や土師器と呼ばれる焼き物で作られた高さ1.2メートル前後の五重塔のミニチュアです。一般的には、寺の建物や堂の中に置かれていたのでしょうが、高さ2メートルにも及ぶ大型品は、野外に本物の五重塔と同じように建てられていたものと考えられています。

瓦塔が、何のために作られたか、明確な答えは出されていません。

ただし、八千代市内から見つかったものは、初層入口の扉部分に軸受けと思われる小さな穴が開けられていることから、この穴に木の扉が付けられ、その中に何かが納められていたに違いありません。本来の「塔」は、釈迦の遺骨である「舎利」を納めたものですが、とても手には入りませんので、代替品として「経典」や「小仏像」を安置していたのでしょうか。

wpe67.jpg (8367 バイト)
八千代市井戸向遺跡出土
青銅製小仏像(8世紀末〜9世紀前半高さ5.3cm

こうした塔は、県内では29遺跡から30個体が見つかっており、8世紀前半に製作が始まり、8世紀末から9世紀前半に最盛期を迎え、9世紀後半には衰退してしまいます。

住宅都市整備公団の土地区画整理事業が進められている物井地区の小屋ノ内遺跡から見つかった瓦塔の破片も、その一つとして注目されています。この瓦塔については、まだ細かに研究されていませんので、詳しいことはわかりませんが、他の例から8世紀終わりごろから9世紀代のものと考えられています。やはり四街道一帯でも、遅くとも奈良時代の終わり頃までには、仏教が村々の生活に深く入り込んでいたことと理解されます。

(皆さんの祖先が眠っているお寺はいつごろ建てられたものでしょうか。お彼岸にでも、お寺にいって、ご住職に寺の由来について聞いてみてはいかがでしょうか。お寺の過去帳を調べると、祖先の興味深い事実がわかるかもしれません。)

平安時代が過ぎて中世を迎えるころには、竪穴住居は最近までの農家に似た高床住宅や平地住居に変化し、ムラは集落として山を背にしたところに営まれるようになります。しかし、現在でもちょっと都会を離れると見ることができるような、トトロの世界、「ムラ」と「お堂」、「鎮守の森」からなる原風景は、遠く奈良時代にあるといえるのではないでしょうか。

(西山太郎)

 

wpe6A.jpg (11309 バイト)

千葉市谷津遺跡出土の瓦塔
(高さ1.2m)

ホームページへ