タイムスリップ in 四街道 

by 財団法人 千葉県文化財センター

四街道は遺跡の宝庫。

『約三万年前の遺跡が、これほど狭い範囲に集中して見つかっているのは、日本各地を探してもほかに例はありません』(本文より)

私たちの暮らしている足元で、大昔の人々が生活していたかも知れません。

四街道にはこんなロマンもあるのです……。

wpe25.jpg (2312 バイト)        (資料提供:マイルストーン

('97.1月号〜'98.1月号に掲載)

 

 

 

旧石器時代の四街道 今…明らかになる3万年前の巨大な村々

10年ほど前、四街道市北部の「バードヒル池花」のバスターミナル付近で、今から3万年近く前(後期旧石器時代のはじめ頃…まだ土器を知らず、竪穴住居もない時代)の遺跡がみつかりました。池花(いけはな)南遺跡といいます。

ここでは、当時の人々が石器を加工したり、火を使ったりした跡が、直径30mの環状になっていました。出土した遺物には、「ナイフ形石器」の一種や石器の斧、それらの素材になる石片(剥片という)など740点があります。それらは現在、県の有形文化財に指定されています。

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遺跡は、旧石器時代としてはめずらしいほど大きな規模で、四つか五つの単位集団(大家族)が集まって住んでいたようすがうかがわれますが、普段バラバラに移動生活を営んでいたそれぞれの単位集団が、ある時期になると集まってきて共同生活を営んだ跡と考えられます。
同様の遺跡は、住宅・都市整備公団が造成を進めている物井地区内の御山(おやま)遺跡(径20m)、小屋ノ内遺跡(径40m)でもみつかっています。また、池花南遺跡と小屋ノ内(こやのうち)遺跡のちょうど中間地点にあたる出口・鐘塚(かねづか)遺跡では、日本最古の装飾品ともいわれる石製のペンダントもみつかりました。この遺跡は環状にこそなっていませんでしたが、やはり旧石器時代のものとしてはきわめて大規模なものです。

約3万年前の遺跡が、これほど狭い範囲に集中してみつかっているのは、日本各地を探してもほかに例はありません。

また、さきに紹介した池花南遺跡の北西側にあった池花遺跡(公園のあずまやがあるあたり)では、1万5000年前頃の、美しい木の葉形をした石槍が大量生産された跡もみつかっており、物井地区の遺跡も含めてみますと、3万年以上前から約1万年前までの後期旧石器時代のあらゆる段階の遺跡が連綿とつくり続けられています。

今後、さらに調査・研究が進めば、単一の遺跡ではなく、この地域全体の旧石器時代のようすがはっきりしてくることと思います。そして、日本の歴史の黎明を明らかにする地域として脚光を浴びることでしょう。

  (渡辺修一)

 

縄文時代の四街道 その1  今から5500年前の定住生活

四街道市の南部を走る国道51号線の吉岡十字路を浜野方面に向かって約1キロ進むと、右手に東京情報大学の真新しい校舎が目に飛び込んできます。この奥、千城台団地に向かって右手が鷹の台団地(四街道市)、左手が御成台団地(千葉市)です。約7年前には、この一帯は畑と林でしたが、いまでは、すばらしい町並みが形成されつつあります。

平成2年、鷹の台団地造成に先だって、財団法人印旛郡市文化財センター(注→)が事業地内に残されていた木戸先遺跡の発掘調査を開始しました。調査を進めるにつれ、おびただしい量の縄文時代前期の土器が出土しました。さらに調査を進めますと、台地の縁辺部に数軒の竪穴住居跡が検出されましたが、とくに驚かされたことは、遺跡の中央部から約200基以上の墓穴が発見されたことです。 財団法人印旛郡市文化財センター

 印旛郡市内の市町村が共同で設立した法人で、郡市内の埋蔵文化財調査を行っています。

墓穴の底からは、上を向いた状態の浅鉢が50点のほか、石匙、石鏃や耳飾り・垂飾り・管玉などの装身具が数多く見つかっています。縄文人が亡き人をていねいに弔ったことを示しています。送られた人は肉親であったのでしょうか。ムラ長であったのでしょうか。縄文社会のようすを知る上で貴重な資料として注目されています。

wpe3F.jpg (3370 バイト) 縄文時代前期になると、日本列島は急速に気候が温暖化し、動物(シカ・イノシシなど)の狩りや植物(クリ・クルミなど)の採集によって、豊富な食糧を得ることができるようになります。その結果、縄文人は食糧を求めて移動する必要がなくなり、現代社会と同じように定住生活を始めます。海の幸と山の幸などの物々交換のためか、遠いムラとの交流も盛んに行われるようになります。最近新聞紙上をにぎわしている青森県三内丸山遺跡で縄文人が生活を始めたのもこの時期です。

木戸先遺跡の人々も、このような日本列島全体の動きのなかで、安定した生活を営んでいたのです。ひょっとしたら、三内丸山遺跡の人々ともつながりがあったかもしれません。そのぐらい縄文人の動きは活発だったのです。

現在、調査成果をもとに整理作業が行われており、千葉県の三内丸山遺跡ともいえる木戸先遺跡の調査報告書の刊行が待たれます。

  (西山太郎)

 

縄文時代の四街道 その2 海岸から遠く離れた?貝塚

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土器の把手に付けられた縄文人のかお
(市原市草刈貝塚)

 

海退現象 寒冷化による大陸氷河の発達などのため、海水が減少して海面が低下し、陸地面積が増大する現象

 

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八木原貝塚がつくられた頃に使われていた縄文土器
(印旛村石神台貝塚出土台付鉢)

貝塚は、一般的には縄文人が海や湖からとってきたハマグリやタイなどの魚介類、山で捕らえたシカやイノシシなど獣の骨が発見されることから、食べたものを捨てたところといわれています。

このような貝塚は、全国で約3000か所知られていますが、千葉県は貝塚銀座ともいわれ、なんと600か所以上も発見されています。ところで、現在の海岸線から遠く離れた四街道にも縄文時代の貝塚があることを知っていますか。

 四街道市北東部に位置する千代田団地内の千代田近隣公園のなかに「八木原貝塚」があります。地表に貝の破片が落ちていることから貝塚の埋もれていることが辛うじて分かります。この貝塚は縄文時代後期(約4000年前)のもので、海水に生息する魚介類を中心としていますが、ヤマトシジミなど海水と淡水の混じりあうところにすむ貝類も見つかっています。

このことから、この貝塚がつくられた時期には、地球規模の(←注)海退現象によって、それまで海水に浸っていた野田川周辺(貝塚の北東側)がしだいに淡水化する状況にあったことが分かります。

野田川は東京湾ではなく、当時は内海であった印旛沼へ流れ込んでいます。印旛沼周辺には印旛村石神台貝塚佐倉市江原台貝塚など点々と、八木原貝塚と同時代の貝塚が発見されています。したがって、縄文時代後期には、東京湾沿岸とは違った印旛沼を中心とした縄文文化が大きく花開いていたことが考えられます。

このように、四街道一帯は縄文時代の昔から印旛沼水系の文化圏に含まれていました。四街道市が、まだ町であった頃、印旛郡に属していることもうなずけます。

西山太郎)

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