| 四街道市内に「御成街道」というちょっと変わった名前の道があります。御成街道とは貴人が通る道のことですから、それがなぜこの四街道に、と思っている方が多いはずです。 御成街道は船橋大神宮下から習志野・千葉・四街道・八街・東金市まで約40kmをほぼ一直線に通っています。一直線の道路は極めて珍しく、北海道のほんの一部を除いてありません。
徳川家康が慶長18年(1613)の12月の末から翌正月にかけて僅か20日でつくった道路です。昼夜兼行でつくったから提灯街道とか一夜街道とよばれたり、家康の名をとって権現道ともよばれています。
御成街道がつくられた理由説は三つあります。
一つは家康の唯一の趣味が鷹狩て゛、その鷹狩に行くため。事実家康はあちこちに鷹狩場をもっていました。しかし鷹狩のためにわざわざ道路をつくる必要はありません。そんな無駄なことをしているようでは天下を制することはできないのです。
二つは産業用道路です。九十九里方面からの産物を江戸へ運ぶため、といわれていますが、あの方面から江戸へ急いで運ばなければならないものは産しません。
三つは軍事用道路です。当時館山に拠っていた里見義康を押さえるため、といわれていますが、里見はたった九万石の大名です。家康から見れば全くとるに足らない存在です。
これが今迄の説ですが、ほとんど説得力はありません。
しかし江戸時代初期までにつくられた道路は(政治道路)が多かったので、当時の政治情勢を眺めながら、もう少し突っ込んでみたいと思います。
御成街道がつくられたのは、大阪冬の陣(1614)の前年です。衰えたとはいえ豊臣秀頼は大阪城に拠って隠然たる勢力をもっています。またこれを支える豊臣恩顧の大名は数多く健在です。更に関ヶ原の戦いで禄を失った浪人は溢れ、動乱を望んでいます。まさに一触即発の騒然たる世の中です。
そういう中で幕府筆頭老中大久保忠隣の謀反の蜜訴が駿府へ帰る途中の家康のもとへ届けられます。
忠隣は譜代の重臣で幕府内では多くの者から信望されていた老練な武将です。したがって謀反の疑いがあっても、直ちに改易することはできません。このため家康は、それまで黙認していたキリシタンの取締り強化の総奉行に任命し、京都行を命じます。事実上の江戸の追放です。
その一方で家康は鷹狩を名目に多くの軍勢を集めます。そして忠隣に与する大名が江戸で騒動を起こした場合、直ちに江戸に駆けつけられる用意をします。
当時佐倉城主であったのは土井利勝で、秀忠、家康から厚く信頼されていました。家康は、武将というより能吏であった利勝に御成街道の築造を命じます。
家康が江戸の動きや忠隣を見張っていたのは御茶屋御殿(千葉市御殿町)で、ここからなら僅かの時間で江戸へ駆けつけることができます。
忠隣は京都でキリシタンの取締りを始めましたが、僅か十日後に改易されてしまいます。
そして改易に合わせてキリシタン取締りは中止となってしまいます。
幕府としては当時40万近くいたといわれるキリシタンを厳しく取締る力はなかったし、また必要もなかったのです。キリシタン取締り強化は忠隣改易の陽動作戦であったのです。(キリシタンを厳しく取締ったのは島原の乱後)
翌年に大阪冬の陣が終わり、名実ともに徳川の天下が成ったのです。
簡単に書けばこうなのですが、大阪の陣、キリシタン取締り、幕府内での武功派と官僚派、譜代と新参家臣の反目、対立など多くの葛藤があり、それが終り秀忠の権力が確立されていったのです。
その葛藤の大きな節目、すなわち忠隣改易のため御成街道がつくられたのです。御成街道は今通れば何の変哲もないみちですが、徳川幕府の安定を大きく支えた土台であったのです。
忠隣謀反の蜜訴があったのが慶長18年12月6日、改易されたのが翌1月19日の僅かの間に、歴史は大きく変ったのです。
御成街道を鷹狩に使ったのは、家康が2回、秀忠が11回、家光が1回の計14回です。幕府は事実上の戦闘訓練であり軍事デモンストレーションですから、幕府政権が安定すれば大きな鷹狩は行われなくなってしまいます。このため御成街道も単なる地域の道路となり、存在は薄れてしまったのです。
御成街道を通るとき、はるか400年の昔に思いを馳せてください。
(飛田 孝) |