●●● 歴史と文化 in 四街道 ●●●

 

四街道には古い歴史があります。

遺跡にまつわる話題は タイムスリップ in 四街道 に満載です。

ここでは、現在の四街道に残る歴史と文化をひもといてみます。

(資料提供:マイルストーン

 


Kumi'sだいあり
 

 

 

御成道

  おなりみち

 

鷹狩のためのみちではなかった……?

四街道市内に「御成街道」というちょっと変わった名前の道があります。御成街道とは貴人が通る道のことですから、それがなぜこの四街道に、と思っている方が多いはずです。

御成街道は船橋大神宮下から習志野・千葉・四街道・八街・東金市まで約40kmをほぼ一直線に通っています。一直線の道路は極めて珍しく、北海道のほんの一部を除いてありません。

徳川家康が慶長18年(1613)の12月の末から翌正月にかけて僅か20日でつくった道路です。昼夜兼行でつくったから提灯街道とか一夜街道とよばれたり、家康の名をとって権現道ともよばれています。

御成街道がつくられた理由説は三つあります。

一つは家康の唯一の趣味が鷹狩て゛、その鷹狩に行くため。事実家康はあちこちに鷹狩場をもっていました。しかし鷹狩のためにわざわざ道路をつくる必要はありません。そんな無駄なことをしているようでは天下を制することはできないのです。

二つは産業用道路です。九十九里方面からの産物を江戸へ運ぶため、といわれていますが、あの方面から江戸へ急いで運ばなければならないものは産しません。

三つは軍事用道路です。当時館山に拠っていた里見義康を押さえるため、といわれていますが、里見はたった九万石の大名です。家康から見れば全くとるに足らない存在です。

これが今迄の説ですが、ほとんど説得力はありません。

しかし江戸時代初期までにつくられた道路は(政治道路)が多かったので、当時の政治情勢を眺めながら、もう少し突っ込んでみたいと思います。

御成街道がつくられたのは、大阪冬の陣(1614)の前年です。衰えたとはいえ豊臣秀頼は大阪城に拠って隠然たる勢力をもっています。またこれを支える豊臣恩顧の大名は数多く健在です。更に関ヶ原の戦いで禄を失った浪人は溢れ、動乱を望んでいます。まさに一触即発の騒然たる世の中です。

そういう中で幕府筆頭老中大久保忠隣の謀反の蜜訴が駿府へ帰る途中の家康のもとへ届けられます。

忠隣は譜代の重臣で幕府内では多くの者から信望されていた老練な武将です。したがって謀反の疑いがあっても、直ちに改易することはできません。このため家康は、それまで黙認していたキリシタンの取締り強化の総奉行に任命し、京都行を命じます。事実上の江戸の追放です。

その一方で家康は鷹狩を名目に多くの軍勢を集めます。そして忠隣に与する大名が江戸で騒動を起こした場合、直ちに江戸に駆けつけられる用意をします。

当時佐倉城主であったのは土井利勝で、秀忠、家康から厚く信頼されていました。家康は、武将というより能吏であった利勝に御成街道の築造を命じます。

家康が江戸の動きや忠隣を見張っていたのは御茶屋御殿(千葉市御殿町)で、ここからなら僅かの時間で江戸へ駆けつけることができます。

忠隣は京都でキリシタンの取締りを始めましたが、僅か十日後に改易されてしまいます。

そして改易に合わせてキリシタン取締りは中止となってしまいます。

幕府としては当時40万近くいたといわれるキリシタンを厳しく取締る力はなかったし、また必要もなかったのです。キリシタン取締り強化は忠隣改易の陽動作戦であったのです。(キリシタンを厳しく取締ったのは島原の乱後)

翌年に大阪冬の陣が終わり、名実ともに徳川の天下が成ったのです。

簡単に書けばこうなのですが、大阪の陣、キリシタン取締り、幕府内での武功派と官僚派、譜代と新参家臣の反目、対立など多くの葛藤があり、それが終り秀忠の権力が確立されていったのです。

その葛藤の大きな節目、すなわち忠隣改易のため御成街道がつくられたのです。御成街道は今通れば何の変哲もないみちですが、徳川幕府の安定を大きく支えた土台であったのです。

忠隣謀反の蜜訴があったのが慶長18年12月6日、改易されたのが翌1月19日の僅かの間に、歴史は大きく変ったのです。

御成街道を鷹狩に使ったのは、家康が2回、秀忠が11回、家光が1回の計14回です。幕府は事実上の戦闘訓練であり軍事デモンストレーションですから、幕府政権が安定すれば大きな鷹狩は行われなくなってしまいます。このため御成街道も単なる地域の道路となり、存在は薄れてしまったのです。

御成街道を通るとき、はるか400年の昔に思いを馳せてください。

(飛田 孝)

 

 

 

 

 

 

 

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佐倉道 さくらみち

1600年の関ヶ原の戦いで、徳川家康は天下人となると、直ちに江戸を中心とする全国支配のための道路の整備を始めます。

東海道(日本橋〜京都または大阪)、甲州道中(日本橋〜下諏訪)、中山道(日本橋〜滋賀県草津)、日光道中(日本橋〜日光鉢石)、奥州道中(宇都宮〜白河)のいわゆる五街道です。

この五街道は今の高速道路のようなもので、全国支配には不可欠の重要路線です。なお道路の出発点(元標)は今でも日本橋ですが、家康が定めたものです。

この五街道と並んで重要な道路が水戸佐倉道です。

水戸道は日本橋−千住−新宿(葛飾)−松戸−我孫子−牛久−水戸までで、佐倉道は日本橋から新宿まで向う路線ですが、その後江戸川に沿って曲金(高砂)−柴又−小岩と下がり、江戸川をわたり八幡−船橋−大和田−臼井を経て終点の佐倉までです。

先ほどの五街道に水戸佐倉道を加え七街道とよばれていました。東側から江戸へ出入するためにはこの道を利用するしかないので、金町、小岩には関所が置かれていました。

佐倉道は、佐倉藩主を初め千葉県の大名達が参勤交代にあたって必ず利用しました。また大名ばかりではなく、江戸へ向う旅人、奉行人(千葉は男女奉行人の供給地)、更に海産物をはじめとする千葉各地の産物が、この道を通ったのです。

1600年の後半になりますと社会も安定し、庶民も自由に旅行ができるようになりました。したがって佐倉道を利用して成田詣が盛んに行われるようになります。

初代市川団十郎(成田屋)は、成田近郷の生まれといわれ、当たり芸は「不動明王霊験記」です。この霊験にあやかるため、成田詣は一段と盛んになります。

成田詣は、江戸から陸路を通るのが本筋ですが、日本橋あたりから舟で行徳へ向うのがよろこばれたようです。

この旅は三〜四日の日程で済みますし、足をのばせば芝山仁王尊、香取鹿島神宮など行楽は豊富にあります。それでいて道は平坦ですから女、老人、子供連れでも苦労はいりません。江戸市民に喜ばれる水陸両用の手頃な旅として、大変な人気がありました。

八幡、船橋、大和田、臼井は宿場町として大いに栄えましたし、房総往還と合流する船橋は、飯盛女郎が沢山いる歓楽宿場として有名でした。

残念なことは、四街道の地名が道に由来しているのに、佐倉道とは遠く、市内には大きな道路が通っていませんでした。しかし明治以後には、JR、高速道路が通り、佐倉道には京成が通っているところに、歴史の面白さと皮肉があります。

(飛田 孝)

 

文学碑「子規の句碑」

JR四街道駅前広場の大イチョウの基にある「子規の句碑」が、文学碑一号となりました。

正岡子規の句碑は、総武本線の前身、総武鉄道が明治二十七年七月三十日に市川と佐倉の間に開通。さらに同年十二月九日に本所から佐倉まで開通しました。

その時開業したのが四街道駅。その頃かけ出しの新聞記者だった正岡子規は、本所より佐倉までの俳句枕の旅を試みました。同年十二月三十日付の日本新聞に、その紀行文「総武鉄道」を発表。

「棒杭や四ツ街道の冬木立」

の句は、その文中にあります。いま、近代的な駅前広場は、四街道の歴史を語る老イチョウ(樹齢150年ともいえる)とともに市の黎明期を後世に永く伝えるものです。そこで有志659人、22団体が相寄り相語り、浄財を持ち寄って、その心を碑に刻み込んで句碑を建立した…とあります。

子規の句碑除幕式が、昭和61年3月31日に盛大に行われ、市に寄贈され、市の文学碑として保存される事となりました。

除幕式で、子規庵保存会澤田正造理事長は、「子規が旅の駅頭で道標の棒杭に冬の木立を配して眺めての句を詠んだと想像します」と祝辞を述べました。

駅を降りたら一度句碑をたずね「温故知新」、市の文化にひたってみてはいかがですか。

(松本 治雄)

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大隆寺と福星寺のしだれ桜

大隆寺

四街道駅前から内陸バスみそら行きに乗る、山梨バス停下車、T字路を左に進むと左側に大隆寺の鐘楼を兼ねた見事な山門がある。この寺は曹洞宗で大永元年(1521)に建てられ、境内には、市の保存樹木指定のカヤの名木や、明治初年の戊辰戦争の彰義隊の敗残兵がかくれたと伝えられている。

また現地の旭小学校の前身山梨小学校がここに開設されたといわれている。

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福星寺

徒歩で吉岡十字路を直進すると左側に「福星寺入口」の案内板を左折し朱塗りの寺の山門をぬけるとしだれ桜の巨木が目に入る。

寺は徳川の幕府の初期の元和2年(1616)2月権僧都宥照が創めて開きしものといわれ、古く砦とそして館があったところに福星寺を建て、土塁と空濠がほとんど完全な形で残っている。

この寺のしだれ桜は樹齢370年といわれる古木だが、1994年枯死寸前の所、樹勢回復の大手術を市で行った結果、翌年も見事な花を咲かせ、花見のお客を魅了していた。

その桜は市の保存樹木に指定され、樹高14メートル、目通り周囲3.3メートル、枝は東西南北にすだれのように垂れ下がり、満開の桜は見事の一語に尽きる。

毎年多くの市民が花見に訪れ、カメラに収める人たちや、寺の庭は花見の宴などが開かれにぎわいます。花の見頃は4月5日前後です。一度花見に出かけてみてはいかがですか。

(松本 治雄)

 

四街道市の誕生

四街道地区は平安時代の書物によると、山梨・物部(今の物井)二郷の名前がある。鹿島川沿岸に水田を開き、千葉沿岸の漁業と、狩猟、米作農業の三本立経済を基盤として関東へ広がったようである。

明治21年市町村制が制定され、これに基づいて22年千代田村旭村ができた。千代田村は昭和15年に町制を施行して千代田町を名のった。


四街道町の成立は昭和30年、千代田町と旭村が合併し四街道町を構成した。当時の人口は1万8146人。この時に町章が制定された(現在の市章)。

四街道町は、戦前は軍部の町として栄え、また戦後は急速な人口の増加をみせて、昭和56年4月1日に市制が施行され(人口6万514人)、県内28番目の市が誕生した。 

(松本 治雄)

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市章

 

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和良比のはだか祭り

四街道市の奇祭、和良比のはだか祭りは、別名どろんこ祭りともいわれ、五穀豊穣と無病息災を祈願し、約200年継承され、毎年2月25日に行われる伝統行事となっております。

皇産霊(みむすび)神社の祭りは、午前中は氏子による神事が行われ、参拝者に祝いもちなどがまかれます。この後男たちが、鉢巻・白ふんどし姿で、神社下の神田に入り豊作を祈願します。またこの年に生まれた赤ちゃんが晴れ着姿で抱かれて、田んぼの泥を額にぬり、健やかな成長を祈ります。

やがて男たちが大勢「田」に入り泥かけが始まると祭りは最高潮へ。水田の周囲にはカメラマン、幼稚園児、小学生、家族連れが詰めかけ、泥が飛ぶと見物人からキャー、キャーと歓声があがり逃げ回り、地方色豊かな祭りを楽しむことができます。

(松本 治雄)

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