文芸・散歩 by マイルストーン 1996.10月から掲載中


上総とんび

−一宮町−


Kumi'sだいあり
 

一宮町で製作されている「上総とんび」は千葉県指定の伝統工芸品である。

安永から寛政にかけて、この町は毎年豊漁が続きにぎわっていた。節分のころから始まる地引き網漁で大籠に一万杯になると豊漁のお礼に「万祝」の装いで守護神、玉前神社に詣でた。

この万祝をヒントに考案されたのが「上総とんび」。

寛政三年、重右衛門が創設して以来約200年、伝統工芸は守り伝えられている。「上総とんび」は、土地の材料を使用しているのが特色。

房州雌竹の骨に和紙をはり、地麻で補強、音を競うために「うなり」を張る。うなりの材料は鯨の髭をテープ状に熱加工をしたものだったが、鯨の取れなくなった現在は、中国産の唐葦がつかわれている。

紙も精選された土佐紙に変わった。雲に隠れるほど大空に舞い上がり、びしょぬれになっても、紙凧は破れることがない。

「上総とんび」は万祝のシンボルとして九十九里の村々で揚げられた。今では端役の節句、子供の誕生や上棟式。また選挙必勝、社運隆盛などとしても飾られている。

図柄は干支、武者絵、家紋や日の出の鶴、寿などがある。特徴のある図柄は明治のころ、東京の凧問屋が青森県に売ったため、ねぶたの原図に使用されてとか、大空に舞う力強い義経弁慶や金太郎凧に、一年の無事を祈りたい。

 

手児奈伝説

−市川真間−

万葉の昔、葛飾の真間の里に、手児奈という美しい娘がいた。働き者の手児奈は、そまつな麻の布に青衿(あおくび)を付け、素足で歩いていたが、その美しさには、豪華に着飾った娘たちもかなわなかった。花のようなほほえみに魅せられた里の男たちは、手児奈に言い寄ってくるのだった。

男たちは何とか自分の妻にしたいと競い合い始めた。深く心を痛めた手児奈は、「私がいなければ、こんなことにはならない」と思い悩むようになっていく。

そして、ある晩のこと、波の音に誘われるかのように、真間の入江に身を投げたのだった。

手児奈のあまりにもはかない身を悲しんだ里人は、手児奈のために墓を建ててあげた。

その墓を訪れた万葉の歌人、山部赤人の和歌に、

 古(いにしへ)にありけむ人の 倭文幡(しつはた)の帯解き交えて 蘆屋(ふせや)立て 妻

 問(とい)しけむ 葛飾の 真間の手児奈が 奥津城(おくづき)を 此処(ここ)とは聞けど真木の葉や 茂りたるらむ

 根が根や 遠く久しき 言のみも 名のみも 吾は 忘らゆましじ

  反歌 

 葛飾の真間の入江にうち靡(なび)く

  王藻刈りけむ手児奈し思ほゆ

と詠まれている。

 市川真間にある手児奈霊堂は、墓の跡と伝えられ、現在は、安産、子育ての神として知られている。また近くには手児奈が水をくみに来たといわれる「真間の井」もある。

 

北総 養老の滝物語

−酒々井−

むかし、むかし年老いた父親と孝行息子がいたとさ。父親は大変な酒好きで、親思いの息子は、毎日働いた金で酒を買い、父親の喜ぶ顔を見るのを楽しみにしていた。

ところがある日、どうしても酒を買う金がつくれず、とぼとぼ帰宅する途中、井戸から酒の香りが。

井戸水をすくい、なめてみると、まさしく本物の酒だった。くんで持ち帰り父親に飲ませたところ「これはうまい」と大喜び。

それからというものは、仕事帰りに井戸水をくんで帰り、父親を喜ばせた。

この話は村中に広がり村人が井戸水をくみ飲んだが、それはただの井戸水だった。

「孝行息子の真心が通じ酒になったに違いない。」

とほめたたえたという。それからこの井戸を「酒の井」と呼び、傍らに碑を建て、これにちなんで村の名も「酒々井」と呼ぶようになったといわれている。

この碑は、下宿の通りから少し入ったところにひっそりと立っている。碑面にはキリークという梵字がかすかに浮かんでいる。考古学的には下総式板碑と呼ばれており、鎌倉時代から室町時代にかけて多く建てられた供養碑の一つである。

 

蘭学の黎明

−佐倉市−

司馬遼太郎の「胡蝶の夢」に「蘭方医学を学ぶなら佐倉にいけ。というのが東日本のその道志望者の常識になりはじめているが、その塾は、良順の実父佐藤泰然ひとりの手で興った。

ただ佐倉11万石の領主掘田備中守正睦が江戸城の茶坊主あたりのあいだで「西洋堀田」というあだなをつけられるほどの開明家だったことも、順天堂の繁栄の条件のひとつになっている」と書かれている。

江戸末期、佐倉は、オランダ医学、蘭学の街として世にその名を知られた。

その佐倉で時の藩主、堀田正睦に招かれ、日本で最初の私立病院「順天堂」を開設、外科医術とその教育で、日本近代医学の基礎を築いたのが佐藤泰然である。

順天堂を開き、先進の外科手術を行ったり、種痘を実施、治療のかたわら全国から集まった門弟たちにオランダ医学書を原書で講義、その中から明治の近代医学をリードした多くの医学者が出ている。

佐倉市本町には佐倉順天堂病院の遺構が、記念館として保存されている。

 

羽衣伝説

−千葉市−

むかし、むかしある所に、こんこんと清水が湧き、夏になるとハスの花が咲く池があり、ほとりには一本の松の木があった。

亥鼻山に城を築いた殿様が松の木を見上げると、その枝にはいままで見たことのない美しい白い布がかかって風にゆれていた。

池のほとりでは三人の美しい乙女が水浴びをしていた。乙女たちはのぞかれているとも知らず、むじゃきに語り合っていたのだった。

乙女たちの姿にみとれていた殿様は、ふと松の枝にかかっていた羽衣に手をのばし城へ持ち帰ってしまったのである。その晩のこと、お城の窓から月をながめていた殿様のもとにひとりの美しい娘が現れた。

「お殿様、私は天に住む天女です。昼間お殿様に羽衣をとられてしまい天に帰ることができません。どうかお返し下さい。」

「そうか、それはすまないことをした」

羽衣を返そうとした殿様は、ふと思いなおし、

「天にはいつでも帰れよう、しばらく城で暮らしてみないか」

と言った。少しためらった天女であったが城にとどまり殿様と暮らすようになり男の子をもうけた。三年の月日があっという間に過ぎ、天女は

「長い間、お世話になりました」

と言い残し天上へとのぼっていったのである。

その後お殿様が亡くなった折、お城の上に舞い降り一粒の夕顔の種を落とし天に帰っていった。その種をひろった男の子が種をまくと、夕顔はすくすくと育ち、大きな実をつけた。その実を割ったところ不思議なことに観音様が現れた。

「夕顔観音」と名付けられた観音様を本尊とした男の子は戦に負けることなく、りっぱな武将になった。この武将こそ千葉常胤(つねたね)であったという。

 

飯高檀林の狐

−八日市場市−

その昔、飯高檀林の近くに一匹の子狐が住んでいた。夜になると農家の鶏や野菜を食べ、朝方は檀林の小僧たちとおっかけっこをする日々を送っていた。

ある日、こんな生活が急にいやになった子狐は、

「偉い坊さんになってやろう」

と思い、修行僧に化けて檀林に忍び込んだ。

朝はだれよりも早く起き、庭掃除、食事の支度、雑巾がけ、暇をみつけてはお経の練習、他の小僧の模範となる仕事ぶりだった子狐は心豊かな日々を過ごし、十年の歳月がたったある日、一番偉い坊さんに代わり、新しい坊さんを迎えた。

この日は行事が多く大忙し、狐の坊さんもよく働き、夜の酒盛りの時にはもうふらふら、「あなたは働きもの」とほめられ、まわりの坊さんから酒をつがれ、酔いつぶれて寝てしまった、さあ大変着物からしっぽが出てしまった。

それを見た小僧たちは「よく長年、わしらをだましたな」と狐を縛り上げたその時、偉い坊さんが言った。

「我々以上の熱心さで学んだこの狐、たまたま人間でなかっただけ、見習うことは沢山ある、ひどい仕打をしてはいけない」。

狐は命を助けてもらっただけでなく、檀林の隅に神社を建てて住まわせてもらうことになった。

神社の名は開運古能葉(このは)稲荷大明神といい、今でも小さなお堂がまつられている。

 

農民を悪政から救った義民、佐倉惣五郎

−成田市−

成田市宗吾の鳴鐘山東勝寺宗吾霊堂は、桓武天皇の昔、征夷大将軍、坂上田村麻呂が房総を平定した折、戦死者供養のために建立した真言宗の寺院である。

徳川四大将軍家綱のころ、下総佐倉藩の農民は苦しみにあえいでいた。

領主堀田正盛が三代将軍家光の死に殉死したあと、十五万石の藩政を国家老に任せておいた。国家老は過酷な年貢を農民に強い、容赦なく取り立てた。

承応元年秋の暴風雨では農作物は全滅したが取り立ては厳しく、餓死する者まで出た。

そこで日頃より農民に人望のあつた公津台方村の名主、木内惣五郎は、将軍の後見識の保科正之の耳に達するよう老中、久世大和守の登城の駕籠先へ訴状を差し出した。

受納はされたが他家の内紛にはかかわらぬ旨申し渡された。

一方名主らに残された道は将軍への直訴だけとなる。この大役を引き受けた惣五郎は、家族の後始末のため帰郷した。

印旛沼の吉高の渡し場で渡し守の甚兵衛は惣五郎に同情し使用を禁じられていた舟で対岸まで渡したあと自らは入水して果てた。

妻子に別れを告げ江戸に戻り、上野寛永寺入り口で将軍家綱に訴状を差し出し、保科正之に受領された。

惣五郎は縄を打たれ承応2年8月3日42歳にして四人の子供と共に公津ヶ原刑場の露と消えた。

一方江戸老中は堀田正信に対し領内の減税を実施すべしと命じ、惣五郎親子の死が実った。宗吾霊堂には、わが国の代表的義民、佐倉惣五郎が祀られている。

 

追憶の海気館

−稲毛−

「二人は連れだって上野駅へ行き、目的もなく稲毛へ行ってみた。白いほこりの多い町で、喉がひりひりするような潮臭い風が吹いていた。
 海辺の松並木のそばの海気館というのに這入って、また飯をたべた。明治初年の建物らしく、赤や青の色硝子が至るところの壁にはめこんであって、襖という襖は黒ぶちの板戸であった。木下は宿の電話を、かりて姉に帰れないと知らせておいて、その晩はちづ子と泊った。」

女流作家、林芙美子が昭和11年に書いた「追憶」の一節である。海気館は明治21年に開設された洋風旅館で、稲毛海岸の名所であった。田山花袋の「弟」、里見の「おせっかい」などの舞台にもなっている。

「白い午後の陽ざしが松並木に縞になってさしている。小さい白い船が波上を風に吸われるように行ったりきたりしている。」

林芙美子の描いた稲毛の風情は、小説の中でしか訪ねることはできないが、潮風を受けて海を見つめている松林を散歩すると、海気館が見えるかも知れません。

 

恋の森

−木更津市−

「君さらず袖しが海にたつ波の、その面影をみるぞかなしき」

荒れた海を鎮めるため入水した弟橘姫(おとたちばなひめ)。走水の海をのぞみ、姫を追慕して日本武尊(やまとたけるのみこと)が詠んだと伝えられる。

木更津駅から東に約1.5kmの所にある大田山が伝承にもとづき「恋の森」と呼ばれている。

昔は近くまで海だったので貝塚や古墳があり、現在は市民公園になっており、園内には金鈴塚遺物保存館、県立上総博物館、旧安西家住宅などがある。

金鈴塚古墳は、小櫃川流域を支配した馬来田国造の墓と考えられ、二子塚と呼ばれていたが、五個の純金の鈴が発見され金鈴塚と呼ばれるようになった。

大田山の中腹にある旧安西家住宅は、寄棟造、茅葺(かやぶき)で、江戸時代中期、農家の建築様式を伝える貴重な文化財である。

緑の大田山から見渡す海に東京湾横断道路がかかっても、空と海の間には弟橘姫の悲しい声が響くまち。

 

手賀沼を愛した文人達

−我孫子市−

人道主義、理想主義を掲げ、外国文学や美術を紹介し、大正期の文壇で一大流派となった雑誌「白樺」

その中心で活躍した、志賀直哉、武者小路実篤、柳宗悦(むねよし)の三人が手賀沼を愛しこの地に住んでいたので、大正の一時期、我孫子は文壇のメッカとなった。

大正9年2月、読売新聞の文芸欄に発表された志賀直哉の「雪の日」我孫子日誌に、

「2月8日、昼ごろからサラサラと粉雪が降ってきた。前から我孫子の雪が見たいといっていたK君が泊まりにきている時で丁度よかった。――

「柳の家へ寄る。座敷でピアノの音がして、K子さんが東京からきたお弟子さんに歌を教えていた。

我孫子に住んで活躍した作家や芸術家の交遊ぶりが描かれている。

常磐線と手賀沼の間の地域に旧武者小路邸跡、柳宗悦の別荘などが並ぶ。

昭和24年に文化勲章を受章した志賀直哉の宅跡は史跡公園として保存されている。

 

山下りんの聖画

−八日市場市−

温暖な気候、植木の生産地として全国的に有名な八日市場市。

南部の須賀地区にハリスト聖教会がある。千葉県指定の文化財になっている壁画には、聖母マリア、キリスト、天使がはめ込まれている。百余年の歳月を感じさせないみずみずしさ、敬虔な宗教的雰囲気には信者ならずとも引き込まれる。

このキリスト教壁画を製作したのが山下りん。

安政4年笠間藩(茨城県)で生まれたりんは、父母の反対を押し切り15歳で上京。絵の勉強した後、23才で厳寒のペテルブルグ(現レニングラード)へ向かった。

絵の具がかちかちに凍る酷寒、火の気のない教会で、りんは聖画の模写に励んだ。

帰国後、東京、神田のニコライ聖堂で30年間、マリア、キリストの聖画を描き続けた。

りんの作品は関東大震災や空襲のためその多くが失われたが、ハリスト教会にわずかに残る聖画に、山下りんの生涯を見ることができるような気がします。

 

海に思いをはせた国木田独歩

−銚子−

新春、地平線から昇る初日の出を見に観光客が多く訪れる銚子。沖は日本でも有数の難所である。独歩の父、専八も、播州(兵庫県)竜野脇坂藩の竜野丸で江戸へ向かう途中銚子沖で難破、黒生の岸に流れ着いた。

旅館で他の遭難者とともにしばらく銚子にとどまっている時、手伝いにきていた淡路まんと結婚、独歩が生まれたといわれているが、さだかではない。

司法省の役人となった父専八の仕事柄、中国地方各地を転々としている。

明治20年、17歳で上京した独歩は、東京専門学校(早稲田大学の前身)に入学した。

この年に処女作「野望論」を発表している。その後、青年文学会に所属した独歩は、徳富蘇峰の影響を受け、蘇峰の国民新聞社にも入社している。

専八とまんが晩年銚子に住んでいたので、独歩もしばしば訪ねた。銚子の自然と波の高い雄大な景色を愛した。

肺結核にかかり体調のすぐれないなかでも数多くの傑作を発表した。なかでも茅ヶ崎の病院に入院中、銚子の海に思いをはせた「病牀録」を残している。銚子の海鹿島の丘、巨大な石にはめこまれた独歩の詩碑は、今でもこよなく愛した海をながめている。

 

千鳥と遊ぶ智恵子

−九十九里町−

人っこひとり居ない九十九里の砂浜の砂にすわって智恵子は遊ぶ。

無数の友だちが智恵子の名を呼ぶ。ちい、ちい、ちい、ちい、ちいー

彫刻家で詩人の高村光太郎が心の病になった妻の智恵子を智恵子の母と妹の住む九十九里浜真亀納屋の家に転地療養させた。光太郎は、薬や菓子、果物の入ったリュックを背負って毎週土曜日の午前中に両国駅から汽車に乗り、大網駅で下車、バスに乗り換え智恵子の待つ真亀納屋を訪れた。

しかし智恵子の病は悪化し、東京、南品川のゼームス坂病院に入院。智恵子は三年余りの闘病生活の中、千数百点の紙絵を残してこの世を去った。

詩集「智恵子抄」は、「道程」に続く詩集として出版され、折りしも戦争に突入する時代であり、戦争の一方で人間の純愛の詩として大きな共感をうけた。

戦争の世の中も落ち着いてきた昭和36年7月15日、地元の句会、白濤会の人々が中心となり「智恵子抄詩碑」が建立され、千鳥と遊ぶ智恵子の詩が刻み込まれている。

人間商売さらりとやめて
もう天然の向うへ行ってしまった智恵子のうしろ姿がぽつんと見える。
二丁も離れた防風林の夕日の中で、松の花粉をあびながら
私はいつまでも立ち盡す。

「智恵子抄詩碑」は今日も九十九里の海を眺めている。

 

歌人・伊藤左千夫の故郷

−成東町−

「故郷の吾家の森は楠若葉椎の若葉に我を待てりけり」

伊藤左千夫が、故郷の成東町を詠んだ歌。左千夫は元治元年(1864)、旧殿台村の農家の四男として生まれた。農家といっても、学問にも通じ、躾の厳しい伊藤家にあって、末子であった左千夫は、格別の愛情をもって育てられ、自由に、伸び伸びとその幼年時代を送っていた。

「政界の人たらむとの希望」が湧いていた。法律を学ぶため上京。入学後眼病に冒され、勉学を断念帰郷。農家の四男。実家と東京の眼科医との間を往復。ある日、歌会で子規とめぐり会い、歌人としての研さんを積む。 

左千夫の生花は県指定文化財として保存されている。

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